2025年の2月。
羽田空港へ向かう京急線。窓の中で夕陽が大田区の空に溶け出すのを眺めながら、息子と私の二人旅が始まった。

目的地は自分の実家がある札幌市。
小学校4年生になった息子は、離婚した元妻と暮らしている。ありがたいことに元妻は、息子と私の面会交流にはとても協力的で学校行事にも声をかけてくれる。今回の旅も、「小学校のうちに北海道に連れて行ってあげたら?」という彼女の言葉も大きかった。「父との二人旅」や「雪景色」を9歳の目で見ておいてもらう事には意味があるように思えた。
新千歳行18:50出発予定。17:00に空港に到着し、荷物を預けて夕食。その後、冷たい風が刺すデッキへ上がった。


羽田空港のデッキ
機材の到着遅れにより出発は1時間遅れた。息子は機内でクレヨンしんちゃんの映画を見ていたが、見終わる前に着陸してしまい不満気だった。「帰りの便で続きを見れば?」と言ったものの、帰りの便にはディスプレイが付いておらず、「嘘つき」呼ばわりされることをこの時の私はまだ知らない。


新千歳空港で荷物を受け取り到着ロビーに出ると、私の母が迎えにきてくれていた。母が息子(=孫)に最後に会ったのはまだ1歳の頃。息子本人は覚えてるはずもなく、実質的には「はじめまして」だった。ただ、息子は”札幌のばぁば”に30分で打ち解けていた。このあたりのコミュ力は元妻譲りなのだろう。
整えられた体験よりも、愛おしいのは日常の断片。
二日目。白樺山荘というラーメン屋へ。「ゆでたまご食べ放題」という謎のシステム。横浜で生まれ育った息子は家系ラーメン一辺倒の人生を歩んできたが、ここで味噌の衝撃に出会うことになる。


ラーメンを食べた後、雪まつり会場に足を運んだが、思いの外パッとしない内容だった。自分が幼かった頃の雪まつりといえば、自衛隊の駐屯地に巨大な滑り台や雪像が作られて、雪の神殿のようだった。いつからか自衛隊は雪まつりから手を引いてしまったらしく、当時を知る身としては物足りない。滑り台で自衛隊員さんに背中を押して貰うのがどこか特別な体験だったので、少し寂しい。


最寄り駅から実家のマンションまでの帰り道。
道なき道に足を埋めていく。

夜の公園で雪合戦をしたのだが、その雪合戦こそが息子にとって今回の旅のハイライトになった。「そこかよ」と膝から力が抜けたが、本当に記憶に残るのは「準備された体験」ではないのかもしれない。
私自身を振り返ってみると、どうだろう。親はせっせと観光地やテーマパークに連れて行ってくれたようだが、あまり覚えていない。それよりも、社宅の狭いマンションの小さいベランダで身を寄せ合って焼肉をしたとか、海釣りのため父親と夜中に出発する時にワクワクした、みたいな事ばかり記憶に蘇る。
日常に潜む特別。息子と別々に暮らすようになったことで、それが遠いものとなってしまったことを今さら痛感する。笑いながらせっせと雪玉を握る息子を見てたまらなくなった。
翌日、スキー場へ。
地元の人間が利用するスキー場を選んだつもりだったが、インバウンドの威力は凄まじく外国人で溢れていた。食堂で並ぶ場所が分からずオロオロしている北欧系。返金されないコインロッカーの扱いがよくわかっていないフランス人。
私は彼らを救うため、TOEIC905点を如何なく発揮した父の活躍は、息子にはいまいち響いていなかった。彼の最大の学びは、スキー場で食べるカレーは死ぬほど美味しいということだった。


私にとっては何年ぶりのスキーだっただろう。中学生からスノーボード一辺倒だったのだが、旅行前に東京で同級生と飲んだ時に「子供とスキー場にいくならスノボよりもスキーにしといた方がいい。子供が転んだりしたらすぐに行けるから」とアドバイスを貰い、数十年ぶりにスキーを履いた結果、普段使わない筋肉が酷使され、私の体は半日でボロボロになった。


旅の終わり。さて、この思い出をどう残そう。
最終日。 飛行機は定刻通り羽田へ。自分が生まれ育った場所に息子がいた風景、そして「また行きたい」という言葉が素直に嬉しい。息子は旅行中、ママと離れている寂しさを口にしなかったが、羽田空港の到着ロビーで元妻に駆け寄る後ろ姿が教えてくれた。


帰宅後、カメラには数百枚の写真が残っていた。 このまま放っておけば、二度と開かないかもしれない。 だから、フォトブックにまとめてみることにした。ページをめくると、ラーメンの湯気や、冷たい雪の感触が、思いのほか鮮やかによみがえる。 旅は終わったけれど、こうして印刷をして物質的な手触りが生まれることで、あの時間にもう一度触れることができる。




いつか息子が大人になったとき、この本をめくるだろうか。 そのとき彼の視線の先に、父のまなざしもまた残っていると嬉しい。