どれだけの週末を覚えてるだろう。
私たちは年に約52回の週末を過ごすわけだが、記憶に残る週末が一体どれだけあるだろうか?平日の仕事を忘れる、体と心を癒す。あくまで平日に対するカウンターとして、治療として、あるいは避難場所として存在するのなら、私たちの週末はあまりにも味気なく、するりと私たちをくぐり抜けてしまう。すぐさま訪れようとする月曜日を前に「もう明日から仕事か……」と肩を落とすのは、このせいかもしれない。
横浜市の南区にある「シトカ」というカフェ。 純喫茶好きな私が通う、唯一純喫茶ではない行きつけ。
住宅街の中にある細い路地を入っていく。「ほんまにあるんかいな」と思ったところに急に現れる、人懐っこい外観。
店内に入ると、ステレオから流れてくる優しい曲。高い天井に優しく反響し、時間の流れを確実に遅くする。そういえば父親が昔こんなような大きなスピーカーを家に置いてた。使ってるのを見たことがなく、ついぞその音質も知らぬままだけど、母親に「邪魔くさい」と言われながら頑なに所有し続けていた理由がちょっとだけわかる気がした。
他のお客さんは思い思いの休日を過ごしている。コーヒーをちびちびすすりながら小説を読む20代の女性。SNS用にケーキの写真の画角を一生懸命探しているカップル。息子夫婦の愚痴を言い合ってるオバ様たち。そこにはテーブルの数だけ休日があった。
私はというと、開高健の「夏の闇」を読み始めるも飽きて、雑誌BRUTUSを手に取ったり、タルトのイチジクをつついてみたりしていた。そんな事をしていると、なぜかふと、昔好きだった写真を思い出した。Instagramでたまたま見つけた写真で、確かミュージシャンなんだけど写真が上手い人だった。保存もしていないので、記憶を辿りながら朧げに覚えてるユーザー名で検索してみる。15分くらい頑張ってやっと見つけた。
時代も国も分からないような、ただただ荒涼とした美しさだけが広がっていて、そこに佇む人物。1枚の写真なのに映画を見ているような感覚がある。死んだ後の天国への道がこんな感じだったらいいのに、と見るたびに思う。
この写真に出会ったのは本格的なカメラを買ったばかりの頃。当時を思い出していくうちに、写真について難しく考えて過ぎて、複雑に絡まった思考の糸がほどけて、1本の糸に紡ぎ直される感覚があった。
「昔好きだった写真を久しぶりに見た」たったそれだけの事が、自分にとっては大きい事だった。フォトグラファーであれ、デザイナーであれ、ミュージシャンであれ、誰しもが「やりたい事」と「お金になる事」の間で問答しながらグルグルしている。たちが悪いことに、技術が上がるほどにその悩みは加速する。なもんで、心から「好きを追求すればいいんだ」と思える瞬間というのは、そうそう訪れるもんじゃない。
やや大袈裟だが、この週末をはさんで私の価値観は変わった。視界が開けたとも言える。この日は自分の中では「ベスト週末オブザイヤー」へのノミネートが決定した。
さて、「完璧な休日」の話にもどる。
土日休みの人にとっては、年に約52回超の土日が訪れるわけで、100回以上の休日がある計算になるわけだが、どういう事か記憶に焼き付きている休日というのが、あまり無い。休日の中には、誰かの誕生日とか、クリスマスとか、誰かの結婚式とか、朝からディズニーに行ったとか色々なイベントがあったはずなのだが……。
コーヒーを飲みながら思い出せるのは、いい写真が撮れた日とか、横浜の黄金町のマニアックな本屋でお気に入りの写真集に出会ったとか、日曜の夕方に亀戸のアトレの本屋で時間を潰し日とか、どうにも地味だし、一人で過ごした日ばかりだ。
「特別な週末と平凡な週末を分けるものは何か?」
言い換えると、特別な週末となる条件は何なのか。よく分からない命題について、イチジクのタルトを睨みつつ思いを巡らせる。結果、「少しだけ新しい自分になれた」という感覚の有無ではないか、という結論に至る。
予期せず良い写真が撮れて自分の新しい感覚に気がついたり、フラッと入った本屋でビジネス書にのめり込んでマーケティングに目覚めたり、とんでもなく自分のツボに刺さるアーティストを見つけたり。何かの拍子に自分の中で変化が起こる。そして次の月曜日からの私は、新しい感性と知識を持った「新しい自分」なのだ。
それを経験できた休日は「当たり」と言えるだろう。
「当たりの休日」を意図して作り出すことは難しいけど、少なくとも一定の発動条件はあって、おそらく「自分と向き合えるゆっくりとした時間」だ。あまりにこすられまくった言葉に自分でも辟易とするけど、どう考えてもこれだ。
思うに、私たちはそういう「当たりの休日」を発動させるにはあまりに忙しすぎる。平日の反動として、休む事に、リラックスする事に、忘れる事に忙しい。ここ最近の私自身を振り返ってみても、マッサージに行ったり、昔の同期と飲み行ったり、なんだか休む事に必死だ。思えば元同僚も「猫カフェに癒されにいく」「甥っ子に会って癒される」「推しのライブで心を浄化する」とかよく言ってるわけだが、その前提として、精神的なストレスや、心の汚染が相当あるわけだ。
そうなると、精神的にはカチカチになったゴムのように柔軟性を失い、何にでも力が入ってしまう。ついには「休むこと」さえも力が入る始末。そうなったまま突入する週末は、まるで記憶に残らない。もう本当に週末があったのかさえ怪しい。
どうやら、平日を生き抜くための週末は心に残らない、というのが一つの結論になりそうだ。
力を抜く。ギアを落とす。これは現代人の私たちにとって、実はかなり難しい。カフェにいても、仕事の事、晩御飯の買い出しの事、来週の出張の事に無意識に思考が持っていかれてしまう。真に脱力する事の難しさは、刃牙でいうところの消力(シャオリー)から学ぶ事ができる(知らない人は読んでくれ)。
ゆったりとした空間にいながらも、思考はあちこちに飛び、常に頭は回転し緊張している。「リラックス=何もしない」というのは思い込みで、放っておいても私たちの脳と体はリラックスなんてできない。意図的に自分を脱力させ、スローダウンさせ、空間の速度と自分の内部速度を徐々に合わせてあげることが必要だ。今っぽく気取った奴は「内面的休日をデザインする」とかほざくのだろうけど、まぁ、そんな感じ。
もう10月。
夏も終わり、ひっそりとした空間で、数ヶ月ぶりのホットコーヒーを頼んだ。私たちの週末はあと10回ちょっとだ。