都会の中の静寂で心を整える。

自然の中で静かさに身を任せることは、私たちが思っている以上に大切なことなのかもしれません。

先日、妻と上野の森美術館のゴッホ展へ。少し早く着いたので、上野公園の中にある東照宮の「静心所(せいしんじょ)」に立ち寄りました。建築として一度見ておきたい、というのが最初の理由。けれど足を踏み入れてみると、そこは思いのほか貴重な時間をくれる場所でした。

都心にいることを忘れる空間




静心所とは、「街の喧騒から離れ、参拝に向かう心を落ち着かせる御神木の前の座」を意味するらしい。




その名の通り、異様なほど静かな場所だった。その日、上野公園では祭りが催されており、そう遠くない位置から和太鼓の音が響いている。静心所は木枠の壁で囲まれているものの、屋根のない屋外空間。それにもかかわらず、周囲の木々が音を吸い込むのか、都心の真ん中にありながらそこだけ真空が生み出されていた。



周囲の音はたしかに届いている。けれど、どこか遠い別の世界で鳴っているような、あるいは目に見えない結界の中に守られているような、不思議な非現実感があった。

静寂の中で、自分の輪郭を重ねる


大袈裟に言えば、久しぶりに自分を取り戻したような感覚だった。

忙しい日々が続くと、人はどうしても目の前のことに囚われ過ぎてしまう。現在進行形の仕事の課題や家庭の問題が脳の大半を占め、日常のささやかな幸せや将来の夢といった、本当に大切なものがいつの間にか端へ追いやられていく。何より厄介なのは、そんな状態に陥っていること自体、自分では気が付きにくい点だろう。

御神木を前にただ座り、ゆっくりと呼吸を整える。それだけで、「目の前の問題に脳を支配されていた自分」をどこか高い場所から俯瞰して見ている感覚が湧く。


家づくりのトラブル、将来の経済的な見通し、仕事の悩み。あまりに近視眼的になり、気が付かないうちに自分の枯渇感を膨らませていたことにハッとさせられる。

けれど、本当は既に”それなりに”満たされているはずなのだ。
ものすごい贅沢ができるわけではなくても、家を建てることができ、1年に1回くらいは旅行に行けて、妻は毎日素敵だ。そこまで無理をして自分をすり減らす必要も、枯渇感に苛まれる必要も、最初からなかったのかもしれない。

ゆっくりと呼吸を繰り返していると、レンジファインダーの二重像がピタッと重なる瞬間のように、ブレていた本来の自分と今の自分がかちりとフィットする感覚があった。目の前のピントが合い、自分の輪郭がくっきりと結び直されていく。

木があれば、神聖な気持ちになれる


私たち日本人には、無意識のうちに神道的な感覚が強く根付いている。木に神が宿っていると言われても、ごく自然にそれを受け入れることができる。

もしかすると西洋的な文化圏の人にとって、御神木は「ただの縄を巻いたでっかい木」に見えているのかもしれない。けれど私たちは、一本の大きな木を前にするだけで、自然と神聖な気持ちになる。お寺と神社の区別すら曖昧であっても、しめ縄が巻かれた巨木があれば、何となしに静かに内省をはじめることができる。




実際、静心所には先客として西洋系の旅行客ファミリーがいた。御神木の方向へ足を投げ出して気持ちよさそうに昼寝をする父親と子供たち。起き上がった母親は、座禅のポーズを作って夫に写真を撮らせて満足気であった。きっとSNSに「日本でスピリチュアルな体験をした」と投稿するのだろう。

彼らの振る舞いを「リスペクトが無い」と咎めることもできるし、「過ごし方は自由だ」と擁護することもできる。けれど印象的だったのは、彼らにとってそこは「珍しい写真が撮れるアトラクション」であり、私にとっては「無意識に背筋が伸びる場所」だったという違いだ。この空間に満ちる透明な空気を感じ取れるかどうかという、感性の違いに過ぎない。

木と静寂があれば、それだけで神聖な気持ちになれる。 それは宗教というより、私たちが自然に受け継いできたすごく豊かな感性であり、恵まれたことなのかもしれない――お祭りの太鼓を遠くに聞きながら、そんなことを思った。